他人の内面など、わかるはずがない。
でも、せめて私の内面との接点を見出したい。
あなたが「ああ今日はいい天気」、と言うとき、
あなたの見上げる空の色は、私の感じる青にどの程度白を混ぜたものなのか。
あるいは、どの程度群青を混ぜたものなのか。私はせめて知りたい。
私が心について研究する目的は、しかし、そのような接点の模索ではありません。
そういう接点に、興味はありません。
あなたが「ああ今日はいい天気」、と言うとき、
「だから一人で散歩したい。あなた、早く帰ってよ」、と思っているのか、
あるいは、「だからあなた、遊園地に連れて行って」、と思っているのか聞けるはずもなく、
ただ打ち震える感じがたまらない。
その感じを得るときこそ、私において、あなたの内面の存在感が頂点に達するのです。
私は、この存在感を得るのに、あなたが言葉を発することを必要とはしません。
あなたがそこにいて、私があなたの状態を表現しようとするとき、
その表現が果たして正しいのか否か、私は決めることができません。
決められず、聞くこともできず、ただ打ち震えるから、
あなたの内面の存在感が頂点にまで引き上がるのです。
私は、対象が何のとき、その内面の存在感を得ることができるのか。
人なのか、虫なのか、石なのか。
私はどの対象へも、その内面を感じることができそうなのです。
相手の内面、すなわち心、とは何か。
これは、古くからあるのに、まだ答えが出ていない問いと言われています。
私に言わせれば、目の前の対象を表現しようとすればよい。
そのとき得られる、表現が不確定すぎて打ち震える感じとともに、
私は十分、心の存在感を得ることができます。
心とは何か。
これが、答えが出ない問いなのは、
多くの人が、対象の表現とともに打ち震える感じを得られないからに違いありません。
では、どのようなカラクリを作れば、多くの人がその感じを得られるのだろうか。
私が心について研究する目的は、そのカラクリを製作することなのです。
唐突だが、心理学者はロボットの心をあぶり出せるだろうか?
あるロボットが心を持つかどうかを確かめる方法の一つはチューリングテスト[1]だろう。
しかし、このテストに合格したロボットに対し、
「このロボットは、私達人間と同じ心を備えている」と考える人はいない。
その理由は、チューリングテストは心の一側面を検査するにすぎないから、ではなく、
心とは何かという問いに対し、明確な解答、すなわちその定義を与えることを、
私達が避けてきたことにある。
私は、心の概念を自律性と隠喩的に置き換え、
これまでにダンゴムシという下等動物において、自律性を実験的に見出してきた[2-4]。
これに対し、社会では、この自律性を心と読み直す動きが現れ始めた[5]。
そこで、私は、改めて「心とは何か」について考察を行い、その定義を「隠れた活動部位」とするに至った。
以下で述べるとおり、その定義によれば、ロボットにはそもそも心が備わると考えられる。
以下では、私の提案する心の定義を紹介し、その定義がロボットを含む機械に対し適用可能かどうかを考える。
ここでは、まず、心の実体を明らかにし、その定義を行うために、
私が道で出くわしたあなたに向かって「こんにちは」と言う日常的場面を具体的に検証する。
「こんにちは」と私が言うとき、あなたは私を五感で捉える。
例えば、私の姿は視覚で、声色は聴覚で捉える。
このとき、あなたの五感は、決して私の心を捉えることはできない。
ところで、あなたの目の前の私には、あなたの五感に捉えられない様々なことが生じている。
例えば、私の意識は、「明日の天気はどうだろう」と考えている。
しかし、そのことを、あなたは五感では決して知ることはできない。
ここで興味深いのは、私は、「明日は晴れるかなあ」と唐突に言いだしたりはせず、
「こんにちは」と言いながらお辞儀を継続できるという点である。
天気についての思考を担う脳部位はもちろん活動している。
しかし、その部位の活動は、引き続き生じてもよいはずの
「明日は晴れるかなあ」という発言という「行動」を発現させない。
行動は、脳内で思考を担う部位によって、「抑制」されているのである。
従って、あなたは、この部位の存在を、五感を通して推測する事ができない。
このように、私がある特定の行動を発現するとき、
私の内には、同時に、思考や様々な感覚を担う部位が、
それに伴われる行動の発現を抑制することで「隠れて」いる。
これら、「活動はしているものの、伴われる(意識的、及び無意識的)行動の発現を抑制する部位」を、
「隠れた活動部位」と呼ぶこととする。
そして、この「隠れた活動部位」こそ、心の正体であると提案したい。
なぜなら、心とは、五感では捉えられないが、
確かに私達の内にあると、その気配を感じさせる何ものかだからである。
「こんにちは」と言う私を目の前にするあなたは、
私の内に、これら「隠れた活動部位」の「気配」を、当たり前の感覚として感じる。
気配は、特別な能力を持つ人が超越的対象に感じる感覚ではなく、
一般の我々が、「あるはずの実体が隠れている時」に得る、ごく普通の感覚である。
例えば、公園で鬼ごっこをすれば、すべり台や植え込みの陰に、友達の気配を感じる。
サバンナでライオンの足跡を見つければ、鬼ごっこのときに感じるのよりずっと強く、
草むらの陰に彼らの気配を感じる。
同様の感覚を、私達は他人と接するとき、不可避的に感じる。
それは、「隠れた活動部位」が、相手の内に必ず実在しているからである。
前章では、人間の日常的な行動を例に、心の実体を考察した。
それは、「隠れた活動部位」であった。
「隠れた活動部位」は、私達がある一つの行動を滑らかに発現させるために必要不可欠である。
私が「こんにちは」と言いながら滑らかにお辞儀できるのは、天気のことを考える活動部位が、
続いて発現させてもよいはずの「明日は晴れるかなあ」という発言を抑制し、
「隠れた活動部位」となるからである。
ところで、この「隠れた活動部位」の存在は、何も私たち人間に限られなくてもよいであろう。
「隠れた活動部位」は、私たちが観察する様々な対象に備わるはずである。
なぜなら、第一に、私達が観察できるあらゆる対象は、ある時、ある一つの行動を発現する。
また、第二に、発現可能な行動が、観察されているその一つの行動のみの対象などいない。
これら第一、二は、あらゆる対象は、ある一つの行動を発現するとき、
その他の行動が発現される可能性を持つことを意味する。
そして、重要な第三の事実は、ある対象がある行動を発現しようとするとき、
様々な活動を誘発するような刺激が完全に排除された状況は、自然界では非常に稀だということである。
従って、あらゆる対象は、「特定の行動を発現しようとするとき、
何等かの刺激によって他の様々な活動も不可避的に誘発されるが、
それらに続く行動の発現を抑制することが要求され、それを実現している」ことになる。
このように、あらゆる対象は、余計な行動を発現する元となる「隠れた活動部位」を備えるのである。
そして、それが「心の実体」である。
その部位は、環境中にある何らかの刺激を受け取ることによって活動しているものの、
引き続く行動の発現を抑制しているため、外部からはうかがい知れなくなり、
観察者は、その気配だけを感じることになる。
従って、あなたが、ロボットを目の前にして何ものかの気配を感じるならば、
その感覚は「隠れた活動部位」がロボットの内に隠れているからである。
そしてそのとき、あなたは「このロボットには心がある」と思うはずである。
あるいは既に、しばしばそう思っているはずである。
通常、心による行動の抑制は、特定の行動(例:知り合いを見かけた時に行われる
「こんにちは」という発言)が滑らかに発現できるように実行される。
しかし、自然界に取り囲まれている我々は、しばしば「未知の状況」に遭遇する。
この状況では、そのような特定の行動が有用性を失い、発現されなくなる。
例えば、道端で突然外国人に、にこやかに話しかけられた私は、恐らく立ちすくむであろう。
このとき、心、すなわちその時点での隠れた活動部位は、対応する行動を抑制する必要をなくしている。
そこで、抑制されていた行動は抑制を解かれ、発現する機会を得る。
外国人に出くわした私は、普段抑制され、
決して見せない満面の作り笑顔を、無意識のうちに浮かべるかもしれない。
隠れた活動部位は複数あるので、発現され得る行動も複数となるが、
どの行動が発現されるのかは、当該の主体にはわからない。
心は、未知の状況において、行動を「自律的に」選択する。
すなわち、その行動が選択される根拠は、主体にとっては計り知れず、
選択された行動は「予想外」である。
このように、「未知の状況」において発現される「予想外の行動」は、
心によって自律的に選択され、自発的に発現する。
この「予想外の行動の発現」こそが、隠れた活動部位としての「心の働きの現前」である。
心とは、行動する観察対象における、隠れた活動部位である。
その働きは、状況に応じた行動の発現を支えるために、余計な行動の発現を抑制することである。
しかし、未知の状況では、自律的に抑制を解き、余計な行動のうち
いずれかを自発的に発現させるという逆の働きを持つ。
これらを総合すると、心の働きとは、「状況に応じた行動の発現を支えるために、
余計な行動の発現を『潜在させる』こと」と言いかえられるだろう。
余計とされる行動は、発現を抑制されるだけで、消されてしまうわけではない。
すなわち、覆いをかけられるだけである。
それままさく「潜在」している状態である。
そして、未知の状況では、「予想外の行動」として自発的に発現させられ得るのだ。
この予想外の行動は、生物を含めた様々な観察対象で観察可能なはずである。
なぜなら、既に述べたように、あらゆる観察対象は、ある状況において行動し、
そして隠れた活動部位を持つからである。
従って、私たち観察者は、観察対象を未知の状況に遭遇させ、予想外の行動を観察することで、
その心の存在を確かめることができる。
私たちは、あらゆる観察対象において「気配」として感じる心の存在を、実証することができそうである。
実際、ダンゴムシでは、様々な予想外の行動が実験的に引き出されている[2-4]。
ロボット、ないしは機械では、
果たして心の気配を感じ、その働きを現前させることは、夢物語であろうか。
実は、エンジニアこそ、それは当り前のできごととして既に捉えていると思われる。
日本のある電機メーカーでは、電車の推進制御装置に電気を通すとき「火を入れる」という言葉を用いる。
装置を出荷する前には、何度も入念な通電検査が行われるが、
そのとき、検査担当者は、「電気入れるぞ!」「スイッチオン!」と言うのではなく、
「火、入れるぞ!」と言う。
この表現は、おそらく、鉄道にまだ蒸気機関車が使われていたころ、
燃料の石炭に火をくべたことの名残であると推測される。
しかし、その言い方が今でも残っているのは、単に伝統というのではなく、
装置の製作に携わる人たちには、装置に電気が通ると、
整然と配置された電機品に「火がともる」のが想像できるからだと思われる。
装置の製作に関わると、通電とともに各電機品が実際に熱を出すこと、
それによってそれらは変形、劣化しつつも、部品として一定の働きを続けることを知る。
構造的に変形、劣化しつつ、激しい電流の流れを制御し、
抵抗で熱をほとばしらせる各電機品は、変形しつつも実直な動作を続ける。
もちろん、製作者は変形による劣化の程度が低い安全な期間内でそれらを使用する。
しかし、出荷後、起こりうるあらゆる変形を予測することなどできない。
従って、製作者は、そのような「未知の変形にも耐えられると信じて」製品を使う。
それは、「電機品が、予想外の挙動で未知の変形に対処することを信じる」ことである。
「電機品には心がある」とは誰も言わないであろう。
しかし、そのように扱っていること、
すなわち、「電機品が未知の変形に対して予想外の挙動で対処する潜在力をもっていること」を
信じていることは確かである。
なぜなら、実際に製作者がどの電機品を採用するのかの決め手は、
その試験を通じて得る「不測の事態でも耐えられるだろう」という判断=信頼に尽きるからである。
ロボットのエンジニアは、同様の心をロボットに見出しているのは間違いない。
ロボットにおいて、「余計な行動の発現を潜在させる隠れた活動部位」は何か。
そして、その行動を予想外の行動として発現させる未知の状況を如何に設ければよいか。
その状況を設定できれば、おそらく私達は、次に、道端の石に心を見出せるはずである。
-> 研究内容: Moriyama's Presentation (English)
文 献
[1] Turing, A., "Computing Machinery and Intelligence", Mind, vol. LIX-236, pp433?460, 1950.
[2] Moriyama T: Decision-making and Turn Alternation in Pill Bugs. International Journal of Comparative Psychology 12: 153-170, 1999.
[3] Moriyama T., “Problem Solving and Autonomous Behavior in Pill Bugs”, Ecological Psychology, vol.16-4, pp287-302, 2004.
[4] Moriyama T, Migita M: Decision-making and Anticipation in Pill Bugs. In: Dubois D M ed. Computing Anticipatory Systems, American Institute of Physics, New York, pp459-464, 2004.
[5] 「心はどこに 研究相手はダンゴムシ」, 朝日新聞, 科学面トップ記事, 2007年7月9日.